ルカの福音書2章 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。 今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
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このルカ福音書は、決して、単なる「喜び」というように、イエス・キリストのご降誕を語り終えようとはしていません。その優しく、牧歌的な雰囲気の中、「この喜びの訪れ」を伝えつつ、ルカ福音書は、私たち読者に実に厳しい問いかけを投げかけています。それが、「この大いなる喜びをいただいた者たちとして、この地で、この尊いお方、すなわち、救い主イエス・キリストをいただいた私たちは、いったい、どのような応答をすべきなのか?」との問いかけなのです。
私たちの手元に置かれた聖書は、「罪なる私たちを心からあわれんでくださっている神さまがいらっしゃる」と語りかけています。それととともに、「そのあわれみゆえに、神さまは、この罪なる私たちを救い出すため、ご自分がこの地上に降り、ご自分の手で、私たちの罪を贖う”みわざ”を起こしてくださった」とも述べています。それなのに、私たちは、そのようなことに無気力、無感動、無関心。そして、無責任にも、そんな聖書の語りかけを知っても何の応答もしようとはしない。もし、そうならば、どのようになってしまうのでしょうか?そんな私のような者たちで満ち溢れている、この地とは、もはや、神さまから見捨てられて当然の場所でしかなくなってしまうのではないでしょうか?
巷を見れば残念なことですが、もはや、イエスさま無しのクリスマスが当然となっているように見えてしまいます。主イエス・キリストがこの地にご降誕くださったとき、すなわち、今から 2,000 年ほど前のときも、また、同じような有り様でした。ところが、当時のユダヤ人社会では見下げられていた羊飼いたちに光を注いでくださった神さま。その出来事からすでに 2,000 年もの歳月が流れましたが、今、このように、世界の東の果てでしかない、小さな島国の中にも、あの人たちと同じように、神さまが注いでくださった“恵みの光”によって、信仰の目を開いていただけた者たちがいます。その中には、ルカ福音書が伝えているように、ほのぼのとした優しさの中で、この信仰を手に入れることができた私のような人たちもいらっしゃることでしょう。いずれの側にあるにせよ、あわれみ深い神さまの恵みは、こんな世界の端の小さな国の、何の値もない私のような人たちのところに届けられてきたのです。
このようにへりくだりをもって、私たちの前にあらわれてくださったイエスさまに、無視を決め込む私たちでいて、本当に良いのでしょうか?