イースターメッセージ

イエスの復活を信じる    

牧師:久野正人    

聖書は、イエスキリストが十字架についてから3日目に、死からよみがえったと語っています。このことをどのように受け止めるべきでしょうか。久野牧師のメッセージです。

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イエスキリストが十字架につけられて死んでから三日目、弟子達は混乱していました。三日前の金曜日の夕暮れ前にエルサレムで執り行われた、あの十字架刑。「わが師、わが主」と呼んできたイエスさまは、あの十字架の上で確かに息を引き取られました。そして、その遺体はユダヤのしきたりに従って手厚く葬られました。

 ところが、安息日の土曜日が終わり、日曜日の朝がやってくるや、どうも様子がおかしい・・・。その遺体が葬られた墓にまで女性たちが出向いてみると、その中は空っぽで、そこにいた見慣れぬ二人が、「あのお方は、よみがえられたのです」と語ったとのこと。その話しを耳にしたひとりの男がその墓にまで走って行き、その中をのぞき込んでみると、そのとおり、あるべきはずの遺体はなく、そのからだに巻かれていた亜麻布が残っているだけであったとのこと。

 いや、それだけではなく、あのお方の死をその目ではっきりと見届け、『もう望みなどない』とあきらめてエルサレムから離れていった二人は、「旅の途中で、死んだはずのイエスさまに出会った」とまで語っている・・・。 それらの話しを聞いた他の弟子たちは顔を向けあって、「そうなのか?本当にそうなのか?」と話し合っていた・・・。すると、その真中に、なんと、あの十字架の上で息を引き取られたイエスさまがお姿を現された・・・。彼ら一同、驚き恐れ、取り乱してしまったことは言うまでもありません。しかし、お姿を現されたイエスさまは、そんな弟子たちに歩み寄り、「なぜ取り乱しているのですか?どうして心に疑いを起こすのですか?」と問いかけてきた・・・。そうです。この弟子たちも私たちと同じように、納得しなければ、信じようとしない人たちだったのです。

「納得してから信じるというのなら、信仰などいらない!」と語った人がいました。その人は、「納得もせず、むやみに信じるというのも考えものだが、納得ばかりを大切に扱い、それが満たされない限り信じようとしないのなら、私たちは、いつの間にか、喜ぶことのできない人となってしまう・・・」と続けました。たとえば、余命二ヶ月と診断されていたのに、そのときからもう三年以上も経過して今も元気に過ごしている人が、私の大切な家族の中にいたとしても、「納得できないから」と言って、喜ぶことができず首を傾げているだけの私となってしまう。納得できなくても、うれしくて、うれしくて仕方なくなってよいはずなのに・・・。

 あの十字架刑をその目で見た人たちの納得は、「イエスさまは、確かに息を引き取られた」ということ。そして、その納得が生み出したのは、大きな悲しみと落胆だけでした。しかし、私たちと同じように「納得しなければ信じないという弱さ」を持っている弟子たちのために、主イエス・キリストはわざわざ彼らを納得させるため、「わたしの手やわたしの足を見なさい」とのお声とともに、十字架刑の際に受けられた傷口までもお見せくださいました。

 はたして、彼ら弟子たちは納得して、イエス・キリストを信じたのでしょうか?いや、そんなはずはありません。なにしろ、死んだ人がよみがえるという前代未聞のことが起こったのですから。ところが、この弟子たちはこの出来事を境に、すっかり別人のようになりました。あれほど悲しみ、落胆していたのに、イエス・キリストを心から喜び、そのお方のよみがえりを、あまねく語り伝える人たちと変わりました。そうです。イエス・キリストは、確かに十字架の上で死なれました。しかし、その三日目には、また、確かに死人のうちからよみがえられました。この弟子たちの変貌ぶり以上に、私たちを納得させるものが、ほかに必要でしょうか?もし、そうならば、私たちはいつまでもこの前代未聞の出来事を信じられないことでしょう。

 信じる先には、たとえ納得できなくても、あなたをも新しく造り変えられる主イエス・キリストとの出会いがあります。それならば、信じない人にならないで、あなたも信じる人にならせていただいてはいかがでしょうか?

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