日本長老教会 大阪キリスト教会 キリスト者のことば

キリスト者のことば

日々是好日 
 
『神よ、お知らせください。私の終わり、私の齢がどれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができるように。ご覧下さい、あなたは私の日を手幅ほどにされました。私の一生は、あなたの前では、無いのも同然です。  まことに、人はみな、盛んなときでも、全くむなしいものです。人は幻のように歩き回り、彼らはむなしく立ち騒ぎます。人は積みたくわえるが、だれが、それを集めるのかを知りません。』(旧約聖書 詩篇39篇より)

  人の一生とは、どのようなものでしょうか。
 旧約聖書の詩篇では、有名な詩人の手により、人生の多くのことがわかりやすく詳しく記されています。 
 現代には生きる目標を見失い、苦しんでいる人が多くいますが、この原因は何でしょう。神を知ろうとせず、俗の世からどうしても離れにくい、そのような思いからではないでしょうか。 
 なぜ神に目を向けることが出来ないのでしょうか。神に背を向け、悪に目を向けやすいのは、人間の弱い性質です。二千年前のキリストの有名な弟子も、正直に我が身を嘆いています。そして、そこから抜け出すには、神を知る以外に方法はないと教えています。
  
 次の詩篇の箇所は、すべての創造主である神、つまり、人を造られた方から顔を背けようとする人々への警告です。愚か者ども、あなたたちはいつになったら分かるのか。耳を植え付けられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。 
 詩篇94篇聖書を読むと、短い日を幻のように歩き回っている一生とは何なのかを、早く知ることでしょう。神の前に心へりくだり、人生の真理が分かったとき、その喜びは言いがたいほど大きく、生きる目標もはっきり見えるようになり希望が湧いてきます。

 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。 詩篇119篇このような永遠の光を、我がものにしたとき、日日是好日の航路を楽しむことが出来るようになるのではないでしょうか。





人生の転機        60代男性(大阪キリスト教会教会員)

 私は、宗教とは縁のない環境で育ち、大学一年の時に初めて教会に足を踏み入れました。同級生がクリスマスに洗礼を受けるというので、その礼拝に招待されたのでした。
 その後大学院に進んでから、その教会に通い始めました。なぜかというと、大学院という、頭の良さだけで人が判断されるような世界に漠然と疑問を持ち、なにかもっと違った価値観があるのではないかと思ったからでした。でもやがて行くのをやめました。キリスト教を頭ではある程度理解したものの、それを信じる理由がわからなかったからです。 

 その後、転機が来ました。ちょうどその頃、英語の教材を作るプロジェクトに参加していました。そのグループは仕事をたくさん抱えていて大変な状況にありましたが、「やれる」と思っていました。ところが人とは忙しくなると、他の人のことが見えなくなります。誰かが仕事を遅らせれば、遅れるのは誰それの責任だと、恨みを持つようになり、グループの和を保てなくなりました。  
 どうしてなのか、ある晩ずっと考えました。そして、クリスチャンの友達が、人には罪が住み着いていて、いくら善を行おうとしても行えないのだ、と言っていたのを思い出しました。聖書の言っていたのはこういうことだったのかと思い立ち、本棚の隅にしまっていた聖書を初めて本気で読み始めました。
 それから数週間、食い入るように聖書を読みました。それは初めて神様と正面から向き合う経験でした。 

 読み進めていって分かったのは、神は心の中を見るということでした。聖書にこうあります。「なぜ、あなたは兄弟の目の中の塵に目をつけるが、自分の目の中の梁には気づかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目の塵を取らせて下さい 』 などと、どうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。」 
 これは、人には罪があるが、自分だけは別だと思っていた私にはショックでした。聖書に自分の心の中を見透かされているような、そんな思いでした。その時私が思ったのは、聖書には勝てない、負けた、ということでした。聖書の神の高い基準に照らせば、自分が正しくない、つまり、罪があるということを認めざるを得ない、そう思いました。 

 それがターニングポイントとなって、その後、教会で、その罪から救われる方法――キリストの十字架を信じること――について学んでいきました。それは一番大事なことを学んだ時だったと思います。